壺中の別天地
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壺中の別天地-その7・高知篇-
●龍馬の生誕は、1835年(天保6)11月15日、高知城に近い本町1丁目である。
●坂本家の身分は郷士御用人であり、1771年(明和8)に郷士に取り立てられ、1784年(天明4)に郷士御用人・3人扶持となる。1785年に5石が加増される。一人扶持は玄米1石8斗なので、坂本家の家禄は合計で10石4斗となる。他に領知が161石8斗(16.18ha)あり、そこから小作人収入を得た。生活は裕福であった。
●龍馬の父は八平直足(はちへいなおたり・1797~1855)、母は幸(1798~1846)。母は龍馬が11歳の時に亡くなり、継母の伊与(いよ・)に寵愛された。伊与の前の嫁ぎ先である種崎の川島家へ船をこいでよく遊びに行ったと云う。川島家の主人・猪三郎は御船倉の御用商人をしており、龍馬に世界地図を見せたり、外国の事情を語っていたと云う。
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壺中の別天地-その7・高知篇- | 2018年05月25日【18】
壺中の別天地-その6・広島篇-
●広島市原爆投下は昭和20(1945)年の8月6日、午前8時15分です。その年の12月までの死者は約15万人、被爆者は56万人を数えました。マンハッタン計画によって、マリアナ諸島のテニアン島を離陸したB-29(エノラ・ゲイ号)は約7時間の飛行を遂げ、広島上空に至りました。途中、四国上空で日本のレーダーに発見され、日本軍の戦闘機の追跡と射撃をうけましたが、巧くかわして、目標地点である相生橋(本川=旧太田川と元安川の分岐点)上空約1万メートル(9632m)から「リトルボーイ」を投下しました。43秒後、「リトルボーイ」は目標から少し外れた島病院(現島内科)の上空約550メートルで核分裂爆発したのです。今回の広島訪問後、直ぐに10年前の子供の中学と高校の社会の教科書を捲って見ました。写真付きでありますが、原爆についての記述は1ページ未満でした。連合軍(アメリカ)が原爆投下に至った経緯については何の記載もありません。10年経った今、教科書の内容がどうなったのか、暇を見つけて市内の教科書販売店に行ってみます。なぜ広島が狙われたか。当時の広島は戦艦造船や軍需品製造の基地であり、多くの将校が住み、軍人はここから戦地に向かい、そして帰還して来ました。敵にとって許しがたい日本の軍需工場の拠点だったのです。また広島は、元は湾であり埋立地であります。今も地下鉄ができないのは地盤が弱いためです。弱い地盤のため当時の建物は多くが木造で、高さもせいぜい3階でした。これは原爆の熱線によって延焼しやすいということです。以下は乗せてもらったタクシーの運転手さんが話してくれたことですが、「広島駅前に今も残る100メートル道路は、敗戦を覚悟した日本軍の司令官ら将校が、ここから飛行機で脱出すらための専用道路として造ったもの」だそうです。一度も使用されませんでしたが。つづく。1月28日。
●次に狙われ投下されたのは長崎市です。1945年8月9日11時2分、市街中心部から3km逸れて、松山町171番地を爆心地として約500m上空でプルトニウム型原子爆弾=「ファットマン」が炸裂しました。高度9000mのB-29搭載の「ファットマン」は同10時58分に投下されたのです。長崎は「武蔵」はじめ多くの戦艦を造った造船所があり酸素魚雷基地もありました。そして針生電波塔を有し、これは戦時の重要な情報基地でもありました。実は、この長崎は第1目標ではなく第2の標的地でした。テニアン島を離陸した「ファットマン」は同9時44分、第1目標地の小倉陸軍造兵廠上空に達しました。小倉とその周辺の八幡をはじめ今の北九州市は軍需工場の拠点であったのです。それから45分間、「ファットマン」は目視によって3度の爆撃航程を行ったが失敗し、遂に天候悪化と燃料費消の嵩みが原因で小倉上空での原爆投下を断念、長崎へ向ったのです。目視が不可であった天候悪化以外の原因には、前日米軍が行った八幡市空襲の残煙による霞や、八幡製作所の従業員が新型爆弾投下の警戒からコールタールを燃やして煙幕を張ったとの証言があります。その他、日本軍高射砲からの対空射撃の激化や、芦屋飛行場からの五式戦闘機や築城基地からの「ゼロ戦」10機の緊急発進も挙げられています。いずれにしても戦争に大きくかかわり、当時人口が多かった都市(当時の長崎市人口は福岡市、八幡市に次ぐ九州第3位)を狙っての原爆投下と云うことです。つづく。1月29日。
壺中の別天地-その6・広島篇- | 2018年01月27日【17】
壺中の別天地-その5・青森篇-
9月の旅は、「北のまほろば」でした。むろん「南のまほろば」のすばらしい国は「大和」です。北は、司馬さん的には「三内丸山」の青森県だったのでしょう。今回も「街道をゆく」を辿ってみました。
羽田経由の青森空港→レンタカーを借りて三内丸山遺跡→金木の斜陽館→青森市内の棟方志功記念館→居酒屋→「津軽海峡冬景色」の青森駅→新幹線とレンタカーで岩手・平泉町の中尊寺・義経堂→銀座・・・の旅行脚でした。
●三内丸山遺跡
三内丸山遺跡は青森市大字三内字丸山の地名が由来。青森空港と青森市街の間にあり、空港から車で10分と近い。遺跡の存在は江戸時代(弘前藩)から知られていたが、県営野球場の建設の際にその規模の大きさが判明。大型竪穴住居が10棟以上、約780軒の住居跡が確認された。今から遡ること5500年前から4000年前の1500年間の縄文時代の集落跡である。縄文時代は世界的には新石器時代である。土器の出現が新石器時代であり、今から約13000年前から稲作伝来の約2300年前までの、約10700年間を云う。由来は土器に縄文模様があるため。3枚目の写真は、集会所、共同作業所、冬期間の共同家屋として活用されたのではないかと想像されている「大型竪穴住居」。4枚目の写真は、大型掘立柱建物(六本柱建物)、穴の大きさと深さは2メートル、柱の間隔は4.2mであり、「縄文尺」(35cm)が使用されていた。この尺度は他の遺跡でも確認されている。その穴に残された栗の木の柱。残った柱には1mのものもある。復元の柱も栗の木ということだが、こんな巨大な樹齢の木が果たして今の日本に存在するのやら・・・いろいろと疑問も膨らみましたが・・・深堀はしません。耐久性を増すために表面を焦がしてもいるそうです。7枚目の写真は高床式掘立柱建物です。これももちろん想像の復元物ですが、柱自体がどっしりと重厚で、今風のログハウス様であります。避暑地としてこのままでも利用したい気分であります。8枚目は竪穴建物で、屋根は萱や樹皮や土などで葺いてあるようです。三内丸山遺跡の最大の特長は、稲作伝来のはるか遠い昔にこの日本で、栗を植林し、大きな集落を形成し、狩猟や漁業をしながら、1500年もの間、定住生活をしていたことです。その世界的にも発達していたコミュニティ-が突如、崩壊したらしいのですが、それは謎のようです。司馬さんはこの遺跡が発見されるや、居ても立っても執筆もできずに、この地へすっ飛んできたそうです。遺跡発見のニュース第1報は1994年7月17日の朝日夕刊。司馬さんがここに立ったのは同7月22日と云う。司馬さん他界の1年半前のことです。写真は史跡の縁(発掘途中と思われる)の栗の木とその実。
●斜陽館
太宰治(1909~1948)の生まれる2年前に建造された津島邸は、人手に渡り旅館などを経て1996年、金木町が買い取り、現在の「斜陽館」となる。大地主で金貸し(金融)業を営んでいた豪奢な国重要文化財である。ここの6男として太宰(津島修治)は生まれ育った。床板は黒光りし、ツルツルで、軋んだ。2階に、れいの芥川賞を懇願する佐藤春夫への手紙なども展示。こと感銘したのは、太宰の子守をした「越野タケ」という女性。太宰は昭和19年、津軽の風土記の執筆を依頼され、3週間の故郷旅をした。それが「津軽」である。「たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四の時だったという。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教えられたのであるが、・・・・・・」(新潮文庫・p207)。30年ぶりの再会場面は涙の物語。『たばこも飲むのう。さっきから、たてつづけにふかしてる。たけは、お前に本を読む事だば教えたけれども、たばこだの酒だのは教えねきゃのう』と言った。」(同p208)。太宰35歳、たけ46歳の、木造町の運動会の日の会話である。太宰は11人兄弟姉妹の10番目。父は多忙で、母親は病身。「私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐに乳母に抱かれ、・・・夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮らしたのである。・・・そうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。」(同p189)」。両親の愛情不足、よりも酷なネグレクト(この時代の分限で子沢山の家では決して珍しいことではない)の情況で育った太宰。家の格柄と両親の愛情不足が太宰の文学を生んだと言えばそれまでか。私は、大学の一般教養で文学を選択し、その教授の専門が「太宰」でした。今なら一端のレポートが書けそうな。今回、一度書いた写真附文を消去したのは、いとも簡単に太宰をスルーするのが憚られたから。11枚目の写真は「太宰ラーメン」。太宰の好物、若竹汁から。12枚目の写真は斜陽館から青森への復路、車中からの岩木山。津軽平野のどこからでも津軽富士を拝める。それが本当だと信じるくらいに津軽の平野はどこまでもだだっ広く、一新ものでした。13枚目の写真は往路車中からの林檎園。「故郷の匂いのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて・・・」(同p45)。青森県の林檎生産額は1000億円を超える、と翌朝の地元紙一面にあった。
●棟方志功記念館
14、15枚目の写真は青森市の棟方志功記念館。私は、志功の作品は何百と見ているし、手持の柵もある。二菩薩釈迦十大弟子・厖濃の柵に、「わだば日本のゴッホ」にした若描の向日葵などが展示。
●青森駅
最後2枚は東京駅顔負けの超ナガの青森駅跨線橋。撮影場所はその中間点から左右。
壺中の別天地-その5・青森篇- | 2017年12月16日【16】