今日の「ちょっとイイ譚・ウマイ譚」

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今週のつぶやき親仁・2021年12月5日(日)~12月11日(土)

●「向田邦子の譚(こと)⑧・木槿忌
▲ここに「森繁の重役読本」(文春文庫)がある。帯時間で7年間余りの長期にわたってラジオ放送された台本の一部をおさめたものだ。期間は1962年の3月5日から1969年の4月19日までである。実に放送回数は2448回である。向田邦子(1928~1981)、34歳から41歳の女ざかりの時である。
▲「森繁の重役読本」の末尾に「花こぼれ なお薫る -彼女は人の優しさ弱さを彫琢する手品師だった-」と題した森繁久彌(1913~2009)の追悼文が載る。そこの書かれた「花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る」という文が向田邦子の墓石に刻まれた。墓所は都立多磨霊園で、最も敬愛していた父親と眠っている。
▲亡くなる前年の直木賞受賞で向田邦子を強力に推した作家の山口瞳(1926~1995)は、その著書「木槿の花」のエッセイで彼女の死を激烈に悼んだ。その題名によって向田邦子の命日は「木槿忌」となった。
▲向田邦子の生前の映像や音声は多くない。お薦めはYou Tubeの「向田邦子の世界」である。澤地久枝氏らとの鼎談や直木賞受賞時の挨拶がおもしろい。
つづく。12月6日。


今週のつぶやき親仁・2021年12月5日(日)~12月11日(土)2021年12月05日【259】

今週のつぶやき親仁・2021年11月28日(日)~12月4日(土)

●「向田邦子の譚(こと)⑦・通夜
▲「青山の見馴れたマンションに到着すると、深夜にもかかわらず、大勢の方々が掌を合わせて迎えてくださった。母の顔がさっと目にはいった。」(向田保雄著「姉貴の尻尾」・p187)。1981年(昭和56)8月28日深夜のことだ。
▲「八月二十九日、初めて南青山のマンションの向田邦子の部屋に足をいれた。彼女は、芳章院釈清邦大姉 になってしまっていた。(略)マンションの住人に迷惑を掛けるということで、通夜の酒肴は『ままや』で供されることになっていた。」(山口瞳著「木槿の華」・234)。「ままや」へ移動し、山口瞳は涙を流しながら仲間と軍歌の「戦友」を歌った(同・p235~237)。
つづく。11月30日

今週のつぶやき親仁・2021年11月28日(日)~12月4日(土)2021年11月28日【258】

今週のつぶやき親仁・2021年11月14日(日)~11月20日(土)

●「向田邦子の譚(こと)⑥・事故から帰国まで
▲航空機事故が起こったのが1981年(昭和56)8月22日。日本人で犠牲になったのは、向田邦子と同行した志和池氏とその秘書を務めていた義妹、通訳の女性の4人を含む17人という。事故翌日の8月23日、二歳年下の保雄氏と志和池氏の妻、他の女性の母親等が羽田から台湾へ向かった。8月24日に遺体確認作業がはじまった。保雄氏によれば、向田邦子の遺体は『悪の華』(ルオー作)に見えたという。「気をとり直して、事故で亡くなった犠牲者のほうに顔を向けたとたん、窓際のいちばん隅に、「悪の華」の絵をみた。おでこが、まるで運動会の鉢巻きをしたように、白く光っていた。そのあたりが、ぼうっと明るんで、ルオーの『悪の華』に見えたのだ。」(「姉貴の尻尾」p154)。
▲しかしその「悪の華」には台湾人の家族も申告していたという。保雄氏は、年齢、身長、血液型、(乳がんの)手術痕、着ていた衣服の色など精査するよう検察官に執拗に告げたという。(同・pp154~155)。この日は、同行の犠牲者家族とともに旅行社へ行き、利用した運転手から話を聞いた。一行が宿泊していたホテルも行った。
▲8月25日、同行の犠牲者家族と事故現場に行き焼香。8月26日、遺体確認終了。8月27日、台湾での火葬(荼毘)。8月28日、保雄氏、遺骨を抱いて帰国。
つづく。11月19日。


今週のつぶやき親仁・2021年11月14日(日)~11月20日(土)2021年11月14日【257】

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